アイキャッチ画像は、Wikipediaより
米軍が主導の現場
2004年8月13日。
私は具志川市(現・うるま市)のショッピングセンターにあるテナント店にいました。仕事終わりに宜野湾市長田の「キングタコス」でタコライスでも食べて帰ろうと、具志川市から国道330号線を通り、長田交差点を右折して店舗へ向かおうとした時のことです。
そこには、警察官や報道陣など、ものすごい数の人が集まっていました。
そして、例えようのない焦げ臭いにおいが周囲に漂っていたのです。
「これは只事ではない」
と諦め、キングタコスには寄らずそのまま真栄原方面へ抜け、国道58号線で那覇へ向かおうとしました。しかし、沖縄県警の警察官に停められます。
「この先は迂回してください」
「何があったんですか?」
「沖国大(沖縄国際大学)にヘリが墜落しました」
そう告げられ、警察官の指示に従って迂回路へ進みました。
沖国大の敷地と道路の間にはフェンスがあったかと思いますが、そのフェンスの内側には日本の警察官も自衛隊もおらず、MP(ミリタリーポリス)や米兵ばかりが立ち並び、日本人は一切中に入れない状態になっていました。

※画像は沖縄県のHPより
画像右側を見ていただくとわかるが、MPがいます。
ここは日本だぞ?
記憶が確かならば防護服を着た人物の姿もありました。当時は「毒ガスでも積んでいたのだろうか」と焦ったのですが、後に知った話では、ヘリコプターのローター(回転翼)に生じた微細なローター亀裂を検知する目的で、低レベルの放射性物質(ストロンチウム90など)が封入されていたためだったようです。
沖縄国際大学の道を挟んですぐ向かいは住宅地であり、マンションなどの高い建物も多く立ち並んでいます。実際の墜落現場周辺では、爆発によって散乱した部品や破片が民家に飛び込んできたという報道もありました。
そして何より特筆すべきは、日本の警察や自衛隊、国土交通省などの調査チームが立ち入ることすらできず、すべて米軍主導で事故処理が進められていったことです。
当時のタイムラインや詳細については、沖縄国際大学のWebサイト内「学報」のページに一連の詳細が残されています。
沖縄はまだ占領下と変わらないのではないか
墜落事故の当日にその近くを偶然通りかかり、目の前の現実を突きつけられた経験を持つ私としては、
「沖縄は、まだ米軍占領下と変わらないのではないか」
そう強く感じざるを得ませんでした。
その時、頭の中には浮かんだのは、サザンオールスターズの「平和の琉歌」の一節でした。
この国が平和だと 誰が決めたの
汚れ我が身の 罪滅ぼしに
人として生きるのを 何故に拒むの
隣り合わせた軍人さんよ
公式チャンネルにアップされていたのが⬆️これでした。
映画『宝島』などをご覧になった方はお分かりかもしれませんが、かつて米軍や基地関係者がやりたい放題だった時代がありました。そして現在においても、日米地位協定の壁により、事件や事故が起きても国内の法律で十分に裁くことが難しいという現実が存在します。アメリカ国内で処罰されると言われても、本当に正当に処罰されているのかどうかさえ分からない……という声を聞くこともあります。
私にとって8月という季節は、自分自身の日常以上に、8月12日の日航機墜落事故、そして8月13日の沖国大米軍ヘリ墜落事故という、忘れてはならない事故の記憶と深く結びついているのです。


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