「デイゴの花が咲き 風を呼び嵐が来た
デイゴが咲き乱れ 風を呼び嵐が来た
くり返す悲しみは 島渡る波のよう」
これは、THE BOOMの名曲「島唄」の冒頭の歌詞です。 ボーカルの宮沢和史さんが、ひめゆり学徒隊の生存者の方々からお話を聞き、深い衝撃を受けて作った曲として知られています。この歌は1992年にアルバムに収録され、その後にシングルリリースされましたが、当時の私がこの歌詞の「本当の意味」を理解できたのは、それから数年後のことでした。
10年ぶりの沖縄・一人旅と一冊の本
1990年代後半、私は高校時代に「海邦国体」で訪れて以来、約10年ぶりに沖縄へ一人旅に出かけました。 当時は今のようにインターネットの予約サイトやホームページで手軽に宿を取れる時代ではありません。私は、りんごプロモーション様が発刊している『沖縄離島情報』という本を片手に、飛行機のチケットだけ握りしめて、何も考えずに沖縄へと飛び立ちました。
宿は、当時は旅慣れした人達の間で有名だった那覇市松尾の「民宿コバルト荘」さん。 電話をすると宿のお母さんが優しく対応してくださり、確か2泊ほどの予約を取りました。この滞在を機にコバルト荘は私の那覇の定宿となるのですが、まさかその3年後、転勤によってこの宿のすぐ目の前に移住することになるとは、当時の私は夢にも思っていませんでした(笑)。
佐喜眞美術館での衝撃:言葉を失い、ペタンと座り込んだ瞬間
滞在中、宿で出会った他のお客様に私が「はり師・きゅう師」であることを伝えると、こんなアドバイスをいただきました。 「まだ予定を決めていないなら、宜野湾にある『佐喜眞美術館』に行ってみて!普天間基地の一部を返還させて作られた美術館なのよ。館長さんも鍼灸師で、治療院も併設されているから絶対に面白いわよ」
その言葉に背中を押され、私は翌日、レンタルバイクを借りて宜野湾へと向かいました。
そこは、丸木位里さん・俊さん夫妻の連作「沖縄戦の図」が常設されている美術館でした。 モダンな建物へと入り、メインの展示スペースに足を踏み入れた瞬間――私は言葉を失いました。
目の前の壁一面に広がる、輪郭を描く圧倒的な「黒」。そして、場所ごとに効果的に使われている、血のような「赤」。
「人間は、あまりの衝撃を受けると、口を開けたままその場にペタンと座り込んでしまう」 そんな表現がありますが、私はまさにその瞬間を人生で初めて体感しました。
教科書の中には「住民を巻き込んだ激しい沖縄戦があった」という程度の一行しか書かれていませんでした。「ひめゆりの塔」の話も聞いたことはありましたが、当時の私の耳にはそれほど残っていなかったのです。私の中の沖縄は、それまで「悔し涙で終わった海邦国体の思い出」の場所でしかありませんでした。
しかし、現実は違いました。沖縄戦とは、ここまで凄惨で、地獄のようなものだったのか。
館長の言葉と、普天間基地を見下ろす屋上
どのくらいの時間、その場に座り込んでいたでしょうか。 両肩にずっしりと重い空気を感じながら受付に戻ると、私の様子を察したのか、受付の方が併設の治療院から館長の佐喜眞道夫先生を呼んできてくださいました。
同じ鍼灸師として、そして沖縄の歴史と現実を観にきた者として、色々とお話をさせていただきました。お別れの際、佐喜眞館長は私にこうおっしゃいました。
「帰る前に、ぜひ屋上に登ってください。そして、そこから見える風景を目に焼き付けてください。それが、今の沖縄の姿です」
館長にご挨拶をして向かった屋上へは、6段、そして23段の階段が続いていました(※沖縄戦の終結日である6月23日を意味しています)。
その先にある壁にはぽっかりと穴が開いており、6月23日の太陽の光がそこを通る設計になっているそうです。
(画像は佐喜眞美術館のFBページより)

6段と23段の階段

今年2026年6月23日の太陽が入った時の画像だそうです。
少し小高くなったその場所からは、普天間基地の広大な敷地が一望できました。 今ならきっとオスプレイがずらりと並ぶ光景なのでしょうが、当時は遥か向こうのエリアに米軍ヘリコプターが並んでいたのを覚えています。後から聞いた話では、米軍基地を上から見渡せる構造になるため、建設当時は米軍側からかなりの反対や圧力を受けたそうです。
「島唄」の本当の意味を知る
その後、私はバイクを走らせ、恩納村まで回ってから南部へと向かいました。ひめゆりの塔、平和祈念公園、平和祈念堂を巡り、那覇の宿へと戻る道中、私は自分自身が恥ずかしく、そして猛烈に悔しかったのです。
「なぜ、私はこんなに大切なことを今まで知らずに生きてきたのだろうか」と。
そしてこの旅を経て、私はようやく「島唄」に込められた本当の意味を知ることになります。
「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」
ウージ(サトウキビ)の森を逃げ惑う中で出会った大切な人と、その後、激しい砲撃によってサトウキビの「下(土の上あるいは土の下で)」で永遠の別れを迎えてしまった悲劇を歌っています。
「デイゴの花が咲き 風を呼び嵐が来た」
デイゴの花は4〜5月に咲きます。沖縄戦が始まったのも、まさに1945年の3月末。デイゴの開花とともに、沖縄に「嵐(戦争)」がやってきたのです。
「風を呼び嵐が来た」の嵐とは
沖縄戦は、あまりの爆音と破壊の凄まじさから「鉄の暴風」と呼ばれました。文字通り、暴風雨のごとく砲弾が降り注いだのです。
「くり返す悲しみは 島渡る波のよう」
島に打ち寄せる波が、止むことなく何度も寄せては返すように、愛する人を亡くした悲しみが、何度も何度も押し寄せてくる様子を表しています。
私の「6月23日」の始まり
当時、私は個人ホームページが普及し始めた初期の頃からインターネットに触れており、「時の流れを旅する」という個人サイトを運営していました。 この旅から戻った私は、「この事実を、島唄の本当の意味を、一人でも多くの人に広く知らせなければならない」という強い使命感から、特設ページを作って解説を行いました。
のちに、いくつかの学校の生徒さんたちが修学旅行の事前学習で私のページにたどり着き、「本当の意味について、ぜひ資料に引用させてほしい」と連絡をくれたこともありました。
あの海邦国体を経て、10年ぶりの一人旅で経験した「Re沖縄(沖縄との再会)」。 私の心の中の「6月23日」という特別な日は、間違いなくあの旅から始まったのです。


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