【沖縄の記憶】タコス、ドル表記、オバァの話と「血の色」のアカバナー。私の沖縄歴の原点【沖縄慰霊の日】

日記

「ニィニィ、観光ねー?」
「アカバナー(ハイビスカス)、良く咲いているでしょう」
「アカバナーはね、何で赤いか知っている? 沖縄の戦争で流れた、血の色なんだよ。観てみなさい、お墓のところや道の隅っこで咲いているでしょう。これがハジカサー(恥ずかしがり屋)のウチナーンチュ(沖縄の人)だわけよ」

これは、私が20代後半で初めて沖縄を一人旅した際、南部の平和の塔へ向かう途中に声をかけてくれた、オバァ(高齢の女性)に言われた言葉です。
※あるあるの話ですが、沖縄の高齢の女性に対して「オバァ」というと、「私はあんたのオバァじゃないよ!」と怒られますのでご注意ください。

道端に咲く美しい赤い花に、そんなあまりにも重い歴史が重ねられている。その事実に強い衝撃を受けた旅でしたが、実は私と沖縄との出会いは、さらにその10年ほど前、高校3年生の時にまで遡ります。

1987年10月:ドル表記と異国情緒の「コザ」

1987年10月、沖縄県で全国一巡の最後となる「海邦国体(国民体育大会)」が開催されました。 当時はこの国体に合わせて沖縄自動車道が開通したばかり。開催地である沖縄市の太平洋側には、真新しい「沖縄県総合運動公園」が整備されていました。

静岡県の陸上チーム(主に役員の方々)の指定宿泊先となったのは、近くの「コザ(現在の沖縄市)」の街にある「デイゴホテル」でした。 私の高校からは私一人しか出場しなかったため、初日に決勝を控えていた私は、役員の先生方と同じデイゴホテルに前泊することになったのです。

監督に連れられて食事や散歩に出かけたのですが、当時の「パークアベニュー(センター通り)」は非常に賑わっており、まさに【異国情緒】という言葉がぴったりの場所でした。

そこで初めて食べたのが、タコスの名店「チャーリー多幸寿」のタコス。 人生で初めて体験するその味に、私は一瞬でどハマりしてしまいました。私の記憶が確かなら、カウンター越しに見るメニューの金額は、日本円よりも「ドル表記」が先だった気がします。アメリカの文化がそのまま溶け込んでいる街でした。

その夜、居酒屋のような場所で、私はコーラを飲みながら先生方の話を聞いていました。 通りを背にしてカウンターに座っている私の後ろからは、少し酔っぱらった基地の関係者たちの英語の会話が、大きな声で飛び交っていました。高校生の私にとって、それはあまりにも刺激的な「もうひとつの日本」の姿でした。

悔し涙の国体、そして転勤による「移住」へ

その2日後、いよいよ本番の試合を迎えました。 二人三脚でやってきたコーチの体調不良などもあり、直前の最終チェックがうまく噛み合わなかったことも影響して、結果はベスト8には残ったものの7位(当時は6位入賞)。自分としては、散々な悔しい結果に終わりました。

しかし、この国体での悔し涙が、私と沖縄を繋ぐ強固な縁となるのは、後々本人も気づかないところで繋がっていくのです。

1998年に専門学校を卒業し、大学の非常勤講師に就いたことで、私の沖縄歴は「第2ステージ」へと進みます。これが、前回アップした【佐喜眞美術館での衝撃】の旅へと繋がっていくのです。

その後、治療院を運営する会社に就職し、2001年には転勤でついに沖縄へ移住。2005年に戻るまでの約4年半、私は沖縄で暮らすことになりました。

不思議な縁ですが、転勤後に私が勤務することになった「イオン具志川ショッピングセンター」の店舗は、あの国体の会場であり、毎日門を眺めては悔しい思いをしていた「沖縄県総合運動公園(県総)」のすぐ近くにありました。ほぼ休みなく働いていたため、毎日のようにその門を見ながら通勤していました。

今でも付き合いのある大切な姉貴分はこの地域の出身ですし、当院で取り扱っている『スポーツミネラル』の合資会社様も、この県総のすぐ近くにあります。そして、一足先に後生(あの世)へ旅立ってしまいましたが、一番付き合いが長く、元スタッフとして支えてくれた大切な仲間も、県総から坂を上がった地域の出身でした。私の人生の要所には、いつもあの「県総」の景色があったのです。

何故、私たちは「沖縄慰霊の日」を知らないのか

2006年6月、私は静岡県三島の地に治療院を開業しました。 その年の6月23日。静岡県内放送局や地域のコミュニティFMを聴いていても、正午の時報と共に黙とうを捧げるようなアナウンスは一切流れませんでした。
沖縄全戦没者追悼式の中継を自ら見に行かなければ、本土で正午に黙とうを捧げる機会など、今でもほとんどありません。

以前、こんな話を耳にしたことがあります。
本土の大学に通う沖縄出身の学生が、6月23日の正午、講義の真っ最中であるにもかかわらず、急にすくっと立ち上がり、南西(沖縄の方向)に向かって静かに黙とうを捧げた、と。

広島原爆の日(8月6日)
長崎原爆の日(8月9日)
終戦記念日(8月15日)
これらは、日本中すべての人が知っています。

では、
なぜ「沖縄慰霊の日(6月23日)」はこれほどまでに知られていないのでしょうか?
どうして、私たちは教えられないのでしょうか。

本土決戦を遅らせるための「時間稼ぎ」として捨て石にされ、20数万人もの尊い命が犠牲になった沖縄戦。これはかつて、ネット上でも広く語られた歴史の真実です。

昨年(2025年)、戦後80年という節目を前に、沖縄戦をテーマにした二つの舞台・映画が公開され、話題を呼びました。
終戦を知らずに木の島で生き延びた二人の兵士を描いた『木の上の軍隊』。
そして、沖縄戦後からコザ暴動までを駆け抜けた若者たちを描いた『宝島』。

どちらも現在はAmazonプライムビデオなどの配信で観ることができます。 当時の激動の時代の流れ、そして沖縄の痛みを肌で感じるには、これ以上ない作品です。機会があれば、ぜひ一度大切な方と観てみてください。

道端に咲くアカバナーの赤が、ただの美しい花の色ではなく、歴史の記憶そのものであるように。 私にとっての6月23日は、これからも決して忘れることのない、祈りの日です。

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